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野口英世細菌検査室とは

野口英世細菌検査室

野口英世細菌検査室(左の写真参照)は、横浜市金沢区長浜にある長浜野口記念公園内に存在します。この細菌検査室は明治28年(1895)に創建されました。日本における検疫制度の整備に伴い、この地に長浜検疫所が創設された時に、その建物群のひとつとして現在の位置に建てられたもので、屋根以外は創建時の姿をほぼ残しています。

この細菌検査室は野口英世が世界にはばたくきっかけとなった大発見・大仕事を成し遂げた舞台となった建物なのです。しかも、野口英世が日本において仕事をした施設で当時の姿を残す建物として現存する唯一のものです。また、日本における検疫制度の歴史においても記念すべき建物です。


明治32年(1899)、野口英世は22歳の夏を長浜検疫所で検疫医官補として過ごしました。前の勤務先であった伝染病研究所の北里柴三郎所長の推薦があっての任官でした。この年の2月に公布の海港検疫法で定められた検疫医官、検疫医官補の制度に基づく初代の着任で、着任したときはまだ制服も定まっていないという状況でした。


長浜に着任してすぐに、外国から神戸港経由で横浜港に入ってきた客船に検疫業務で出向き、船内のただならぬ病人(船員)を見て、直ちに隔離。検体を採取し、細菌検査室での顕微鏡検査に取り掛かり、ペスト菌を見つけました。この情報を受けて検疫所は船内、乗客、船員に対して検疫法に基づいた消毒処置を行いました。これによって、ペスト菌の横浜上陸が阻止され、横浜の街が恐ろしい病魔から救われました。


当時としては、大発見、大ニュース。新聞紙上で野口英世が大きく取上げられました。また、伝染病関係の医師や海港検疫医の間で野口の名が知られることになりました。野口英世の世界的な活躍のきっかけとなる出来事でした。


この細菌検査室は大正12年(1923)の関東大震災で他の建物とともに倒壊しましたが、翌年には再建されました。このとき、屋根は瓦葺から現在のかたちに変更されましたが、それ以外は旧部材を多用して倒壊前の姿に戻されました。


昭和13年 (1938)に長浜検疫所は横浜検疫所と名称変更。昭和27年 (1952) に横浜検疫所の庁舎は中区海岸通に移転。残された旧庁舎は長浜措置場として存続しました。しかし、時とともに長浜措置場の役割が変化し、細菌検査室など、施設の一部は放置されるようになりました。


昭和45年(1970)ころから長浜措置場施設新築更新の計画が持ち上がり、昭和53年(1978)には細菌検査室などの旧施設取り崩しが新聞で報道されました。野口英世ゆかりの細菌検査室に強く関心を持っていた小暮葉満子(現当会顧問)はこの報道に大きな衝撃を受け、何とかせねばと細菌検査室の保存に立ち上がりました。


この保存運動は大きく盛り上がり、昭和60年(1985)に細菌検査室存続が決まりました。そして、昭和61年(1986)の長浜措置場施設新築更新では旧施設のほとんどが取り崩されましたが、1号停留棟と細菌検査室が残されました。平成5年(1993)には細菌検査室は野口記念館として国から横浜市に払い下げられ、平成9年(1997)に横浜市による補修工事が完了し、隣接の長浜ホールとともに一帯が長浜野口記念公園として開園し、市民に公開されました。


現在、野口英世細菌検査室は横浜市の資産として横浜市長浜ホールが管理しており、長浜ホールの開館時間内であれば誰でも無料で見学ができます。


■ 開館時間:午前9時から午後5時まで

■ 休館日:年末年始(12月29日~1月3日、月1回程度の施設点検日)

■ 入館料:無料

  (休館日と交通アクセスについては長浜ホールのホームページを参照)


参考:長浜ホール
長浜ホールは長浜検疫所の事務棟の外観を復元して、現在の場所に新築されたものです。103席の音響反射板を供えたホールがあり、音楽を中心とした文化活動に利用できるものです。


参考:1号停留棟
現在、「1号停留棟」は「長浜野口記念公園」隣接する「横浜検疫所輸入食品・検疫検査センター」内にある。伝染病感染の疑いのある一等船客と上級船員を留めおく施設であって、高級ホテル並みの設備が整っていた。現在は、「検疫資料館」として利用され、毎年1回市民に公開されています。


参考:長浜検疫所の歴史
明治12年(1879)7月:猛威を振るっていたコレラ蔓延防止のため、神奈川県と長崎県に地方検疫局設置
明治12年(1879)9月:神奈川県三浦郡長浦(現在の横須賀市長浦)に「長浦消毒所」開設
明治28年(1895)3月:日清戦争が始まり横須賀軍港拡張に迫られ、「長浦消毒所」が人家が少なく山に囲まれ周囲と隔離された神奈川県久良岐郡金沢村大字柴(現在の横浜市金沢区長浜)に移転。内務省告示で「長濱検疫所」と呼称。敷地1万4370坪余、建築物2144坪、棟数38、海中に:10間の防波堤、その内に65間の木造桟橋を架して船客や貨物の陸揚の便に供し、上等船客用には14棟の停留室、下等船客用には100人収容の停留室それにそれぞれ男女浴場、化粧室を附し、その他消毒施設はもちろん食堂、談話室、伝染病院、火葬場まで設けて、工事費約10万円をかけ完成した
明治32年(1899)4月:海港検疫法制定に伴い、内務省直轄の「横浜海港検疫所長浜措置場」となる。なお、「海港検疫法」の内容は①海外諸港及び台湾より来航する船舶が対象、②検疫を受け許可証を得るまでは入港、陸地又は他船との交通、船客、乗組員の上陸、物件の陸揚げを禁じる、③内務省海港検疫所を横浜・神戸・長崎・口之津(長崎県)に設置、④対象はコレラ・ペスト・黄熱病・痘瘡・しょう紅熱、⑤現に伝染病の死者のあるもの、航海中伝染病の死者のあるもの、伝染病流行地を発しまたはその地を経て来航し、もしくは伝染病毒に汚染したる船舶と交通したものは所定の検疫信号を掲げること、⑥病状診定上必要がある場合2日以内の停船を命じること。停留日数はコレラ・黄熱病は5日、ペストは7日。
明治32年(1899)5月:海港検疫医官、医官補を採用。この医官補のひとりが野口英世
明治32年(1899)6月:折から入港した亜米利加丸の検疫で野口英世が中国人船員からペスト菌を検出
大正12年(1923)9月:関東大震災で施設に壊滅的な打撃を受ける
大正13年(1924) :震災で崩壊したほとんど全部の施設を原型に復旧
昭和4年(1929)5月:検疫所内で短歌小集会が開かれ、与謝野寛・晶子夫妻、平野万里ら10名が来所
昭和22年(1947)4月:検疫所管制が公布され厚生省所管となり、「横浜検疫所」に名称変更
昭和27年(1952)8月:横浜検疫所庁舎が横浜市中区海岸通に移転。旧庁舎は「横浜検疫所長浜措置場」として存続
昭和43年(1968) :「長浜措置場」の地先海面1.5㎞までの埋立開始
昭和57年(1982)10月:輸入食品の検査を開始
昭和61年(1986)3月:長浜措置場施設新築更新
平成3年(1991)10月:「長浜措置場」の一部を改修して「輸入食品・検疫検査センター」設置
平成5年(1993)2月:細菌検査室を横浜市に払い下げ
平成7年(1995)3月:輸入食品・検疫検査センター棟新築
平成9年(1997)2月:輸入食品中央情報管理官設置
平成15年(2003)7月:輸入食品・検疫検査センター/検疫資料館(1号停留棟)の施設公開

    

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